大満寺山(だいまんじさん)@

隠岐最高峰608m

★竹谷素信氏著、布施の山伏より・・

 原始宗教の山岳信仰の時代以来、大満寺山が霊山(隠岐にある日本的霊山)として崇敬せられたと言う事は記録にもある。
海上から遥かに望む時、他の山々に抜きんでる偉容や、秀麗さ、特に布施の石山かにの眺望の優姿、それら何れの場合に
於いても、宗教的な神秘に打たれ、神霊の啓示を覚えるものがある。
修験行者(山伏)が国内の山々や島々を行脚して隠岐に渡った時、この霊山を見逃す筈はない。彼等は大満寺山腹に道場(礼拝所)を設け、
主峯や、その山系の険所を山林跋渉の行程の中に組み入れたのであろう。


東郷付近からの大満寺山の眺望

西郷湾からの大満寺山

布施・南谷林道からの大満寺山

 更に竹谷氏は
大満寺山は大満山(タマヤマ)の霊地として尊崇せられていたと・・
大満寺山は別に摩尼山と言われている。そのような固有名詞で呼ばれるのは
「摩尼山大満寺」という山号寺号の寺
創建されてから後の事で、それまでは
「布施山」(稀には大満山【タマヤマ】と呼ばれていた)
大満寺が創建された年代には様々な説があり定かではないが・・隠岐島誌によると・・
佐々木清政が隠岐両島を平定し、居城を宮田(くんた・現東郷)から甲ノ尾(こおのお・現港町)に移した1556年頃ではとも言われている。

〔隠岐島誌〕

 『摩尼山大満寺は大字有木に在り、大満寺山の半腹にありて、曹洞宗の古刹たり、当寺は甲ノ尾城の鬼門に当たれるを以って 
 当国の守護佐々木氏が、居城鎮護の霊場として創立せる所なりという。当寺も明治二年廃佛の際、仏像は焼却せられ、
 寺院のみ僅かに火災をのがしが、明治45年7月に至り再興せり』


現在の大満寺・有木側、山頂から南側
の中腹にあります。本堂はかなり傷んでいて
中には何も無いととの事です・・

本堂前の鐘。摩尼山大満寺とあります

山腹にある寺。かなり広い敷地です。

 ★布施の灘部氏から・・・

 現在ある大満寺は、有木側(大満寺山山頂から見たら南側に)位置している。
これは、甲ノ尾山城(現港町・城山さんとも呼ばれている・)に隠岐の国主、佐々木氏が居城した事と大いに関係があると。
甲ノ尾城からの北東【丑寅】の方角に大満寺山がある。
昔は方位を特に重要視していた。
北東から魔性の入るのを防ぐ意味・災いを防ぐ意味で、
南側に魔性封じの寺を移動させないといけなかったのではと・・

南側に移る前までの寺【大満寺】は布施側(乳房杉付近)にあったのではないか。
これも方位が意味をすると・・
大満寺山から見たら、北東【丑寅】が乳房杉付近に当たる。
更に言えば、乳房杉付近から見たら、布施村が北東【丑寅】に当たる。

 更に灘部氏は興味深いお話をしてくれました。

 大満寺が南側に移る前頃までは、大満寺山は真言宗の時期があったと。
1667年にかかれた隠州視聴合記にも、真言宗という言葉が出てくる。寺が南側に移った頃に何らかの理由で、
真言宗のお坊さんが出ていったのではないかと・・
 その後、禅宗に変わったのではと。(武士は禅宗が多かったと・佐々木氏との関係か??)
2002年頃、灘部氏の元に当時、島根県の文化材の関係で調査をしていた【かつべまさひろ氏】から電話がありました。
鳥取の大山から岡山よりに行った小さな村に、地元の人が【大満寺山と言って昔から大切に祀っている石碑があると】
灘部氏と親交のあった勝部氏が、たまたまその地域に行ってその話を聞いたそうです。

その地域の大満寺さんは、隠岐の大満寺山と関わりがあると言われています・・・(確たるものはありませんが・言い伝え??)
隠岐の大満寺山にあった真言宗のお寺のお坊さんが、大山(天台宗)を頼って、その後この地域に行ったのではと・・
(灘部氏は自分の説ではあるがと・・・)


甲ノ尾山の横からの全景

甲ノ尾さん・この鳥居から階段を登って行きます

国府尾神社(こうのお)とあります