醍醐寺(京都市伏見区)

真言宗醍醐派総本山

 山岳修行をめざす聖宝が、笠取山山頂に建立した小さな堂宇が、醍醐寺の第一歩だった。やがて醍醐天皇の勅願時となり、
山腹に大伽藍が造営されて繁栄をきわめるようになる。ちなみに山上伽藍を上醍醐、山腹伽藍を下醍醐と呼ぶ。
 醍醐寺は奈良の東大寺との関係が深く、また東密小野流の拠点でもあった。さらに、
聖宝以来、修験道とも密接なかかわりを
もちつづけ、江戸時代には真言宗系の修験道「当山派」を管轄するにいたる。

 醍醐寺には塔頭も数多い。なかでも、三宝院の歴代門跡は、醍醐寺座主として、政治の世界にまで手腕を発揮し、
この寺の隆盛に大きく貢献した。
 下醍醐の五重塔は唯一現存する創建当時の建築で、内部に描かれた曼荼羅とともに重要な作品であり、そのほかにも、
絵因派果経・五大尊像・白描密教絵図など日本美術史上の名品を所蔵し、また文書類や庭園にも見るべきものは多い。

                                正木晃氏著 知の教科書 密教 (講談社) より抜粋させていただきました。

天野 快道 隠岐郡西ノ島大山の生まれ
 元、大本山醍醐派の管長として三宝院門跡として、大僧正の栄位に進んだ。

隠岐寺院史  横山弥四郎氏著  〜廃仏寺における仏教の復興〜より抜粋させていただきました

 真言宗は弘法大師、空海が、延暦23年、入唐して真言宗を修めたところから始まる。最澄の天台宗と共に、
我が国では極めて古い宗派に属する。
従って寛文7年「隠州視聴合記」の島内寺院の欄をみても、
寺院74ヶ寺中、真言宗が43ヶ寺であるからその頃の繁栄は思われよう。

明治初年真言宗が、廃佛結了と殆ど同じうして開教の意欲に燃え盛った事実は、・・本山の熱心そのものではなく・・
二教師即ち、天野快道、大野明演の両師が共に隠岐島の出身者であったからのように思われる。

開教師   天野 快道   明治十年九月渡海
 西ノ島町大山の産、齢8歳にして五箇村小路、願満寺の叔父仁明師について弟子となり、「裏山へ小僧の時分、椎茸取りに度々
参りました。実に思い出深き云々」とは五箇村、宇野品一郎氏に寄られた感懐である。生前、宇野品一郎氏に対し、
死後の分骨建碑の事迄頼んで死なれた。
極めて郷土想いの人であり、従って分骨埋葬の地は、大本山京都醍醐の三宝院と、終焉の地、愛媛県今治市、南光坊と、
西ノ島大山の生地墓所、そして五箇村願満寺に葬られている。